2024年11月22日(金)

WEDGE REPORT

2016年3月31日

“規律ある民主主義”をめぐり

 ところで、軍は2011年の民政移管以来、「規律ある民主主義」の重要性を強調している。それは党利党略に走りやすい議会制民主主義を、国益からそれることのないよう、軍が制度的に監視するという考え方である。そこには国軍の政治に対する強い使命感がうかがわれ、国軍の名誉の維持と、政治へ介入する権限の確保、そして軍政期につくりあげた経済利権の継続の意思表明が見て取れる。軍政期に15年かけてつくられた現憲法は、そうした軍の思いが結晶したものであり、だからこそ改憲に応ずる気配をいっさい見せないのである。

 「規律ある民主主義」はしかし、国軍の特許とはいいきれない。「規律」という言葉に着目すれば、それはアウンサンスーチーも好む言葉だからだ。彼女は1988年に民主化運動へ参加した当初から、「民主主義を実現するためには国民が規律を持つ必要がある」ことを強調し、当時の日本や西ドイツを事例に出しながら、「規律と民主主義」「規律と経済発展」との有機的連関を党員に説いていた。いわば、規律なき国民は民主主義を担うことはできないという考え方である。

 彼女のその考え方は、あるときは自分の演説会場で靴を脱ぎ散らしたまま入場した者への批判となり、あるときは暗記中心の教育がもたらす弊害の指摘となり、またあるときは権力者の命令に恐怖心から無批判に従う姿勢への批判として語られた。抽象的にまとめれば、一人一人の国民が「問いかける心」を持ち、理不尽な命令には従わない自己決定の勇気を持つべきだとする考え方だといえる。

 一方、軍が「規律ある民主主義」をいうとき、それは軍による議会制民主主義の監視であるだけに、軍人の行動様式に似た「指導者や政府に忠実な人間」と同義化した民主主義に響く。アウンサンスーチーが理想とする「自分で考え、自分で責任をとる」ことのできる「自律した国民による民主主義」としての理解とはベクトルが異なる。

権威主義的手法用いるアウンサンスーチーに違和感

 アウンサンスーチーはしかし、昨年11月の総選挙での圧勝後、当選したNLD議員たちによるマスコミへの発言を厳しく抑制し、大統領資格制限条項をめぐる軍との交渉過程についても非公表を貫いた。これには違和感を有した人も多いだろう。「問いかける心」や「自分で考え、自分で責任をとる」ことを訴えてきた人物が、なぜこのような権威主義的なやり方をとるのかという疑念がそこには生じる。

 国民(特にNLD支持者)はそうした彼女の姿勢に現段階ではきわめて従順である。その理由は、アウンサンスーチーの権威に対するへつらいというよりも、彼女に対する絶大な信頼と期待によるものとみなせる。しかし、新政権が発足したいま、NLD議員の議会外での発言や、マスコミの取材などは、たとえ段階を踏むにしても自由化されるべきであり、そうでないと民主化は単なる「アウンサンスーチー支配」にとどまることになりかねない。いかなる不一致や不統一がNLDや新政府の中で生じても、それを隠すのではなく、それらをどのように民主的に克服するのかを議論し、建設的に取り組む姿勢を見せる必要がある。国民との蜜月が永遠には続かない以上、この点を避けて通るわけにはいかない。

 同時に、今後も軍とのあいだで「規律ある民主主義」の意味と方向性をめぐって相克が生じ、それがいっそう深まることが予想される。このことが、新政権がぶつかる最大かつ長期にわたる荒波になる可能性は誰も否定できない。

  
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