2024年4月19日(金)

Washington Files

2021年6月21日

 最初に激しい戦いに直面したのは、言うまでもなく、イギリス本国相手に北アメリカ13植民地が立ち向かった「独立戦争」(1775~1783年)だった。戦闘開始の1年後には植民地側は独立宣言を発布、国際的にも認知された「アメリカ合衆国」が誕生したが、英国側はこれを無視し続け、その後7年間にわたり米国各地で交戦状態が続いた。戦死者は米国側2万5000人、英国側2万4000万人、負傷者は双方合わせ4万人以上の戦禍を招いた。

 「独立戦争」終結後も憎悪の関係は清算されるどころか、くすぶり続け、1812年から1814年にかけて再び戦火を交えた。「米英戦争」として知られるが「第2次独立戦争」ともいわれた。英国側が①米国と欧州大陸との貿易を妨害した②米側船舶の自由航行権を侵害した③米本土内のインディアンと同盟を結び、アメリカ人の西部開拓を妨害した―ことなどを口実として、米国側から宣戦布告したものだった。2年半に及ぶ交戦で、米国側に6800人、英国側に5500人のほか、インディアン側にも500人の死者をもたらした。

南軍に加担した英国

 さらに、両国の関係は、米国史上最悪の内戦となった南北戦争(1861-65年)においても、悪化した。この戦争に欧州各国は「中立」の立場をとる中で、英国だけは、奴隷制度の堅持を主張する南軍に加担したからだった。当時、英国の繊維工業は米国南部諸州の綿花に依存していたことが主な理由だったが、奴隷解放を支持する多くの良識派の米国民の対英不信を一層かきたてる結果となったことは否定できない。

 また、「米英戦争」では、アメリカ・デモクラシーの象徴的建造物である、ワシントンの連邦議事堂が英国軍の焼き討ちに会い、ホワイトハウスも襲撃で焼失するという衝撃的結果を招き、米国民感情に深い傷跡を残した。日本による朝鮮統治時代にありえなかったような蛮行でもあった。

 南北戦争後も、両国の関係はただちに「和解」へ向かったわけではない。1860年代を通じ、米国内では、南軍に加担した英国への反感は収まらず、とくに北東部諸州アイルランド系市民の間では、英国からの独立機運が盛り上がりつつあった祖国アイルランドへの肩入れを政府に求める政治運動も活発化するなど緊張が続いた。

 1890年代にはいってからも、産業革命による工業化が急ピッチで進んだ米国からの工業製品が英国市場を席捲するに至り、英国内では「アメリカの経済侵略」への対抗措置を求める声が高まったことを受け、輸入品に対する高率課税政策が打ち出された。

 1895年には、南米英領ギアナとベネズエラ間の国境紛争をめぐり、ベネズエラの立場を支持する米国政府とこれに反発する英国政府との間で「一触即発」の緊張状態にまでエスカレートしたこともあった。

 しかし、その後、両国の「共通利益」が、反目による国内政治向けの打算を上回る国際情勢の展開により、急速に距離を縮めていくことになる。

 すなわち、1898年、米国-スペイン戦争では、英国は当初、米国によるキューバ統治に反対の立場からスペイン側の支持に回ったが、米国が「最終的なキューバ独立」を約束したのと引き換えに米国支持に転換。その見返りとして米国政府は、南アフリカ支配権めぐりイギリス人とオランダ系ボーア人が戦ったボーア戦争(1899-1902)で、米国民の多くの反対にもかかわらず英国側に加担した。

 第一次世界大戦(1914-1918年)では当初、「中立」の立場だった米国が途中から英仏伊露日など「連合国」側に加わり、ドイツ、オーストリア・ハンガリー帝国相手に戦火を交えた。

 その後も幾多の曲折をへて、第二次世界大戦を契機に1940年、ついに「軍事同盟」締結に至り、今日のような世界に類を見ない強固な「特別な関係」へと発展していった。

 こうした経緯が示す通り、両国は、言語、文化、民族性など多くの共通性を抱えながら、警戒心、猜疑心、意地の張り合いなど複雑な国民感情が永年にわたり立ちはだかり、真の和解を妨げてきた。しかし、双方の時の為政者たちが目先の利益や政治的打算だけに縛られることなく、共通の理念を追い求めてきた結果、最後は強固な同盟関係を築き上げるまでに至った。「旧宗主国と被植民国」という“暗い歴史”を克服する模範ともなった。

 これに対し、日韓両国は第二次大戦終結から75年以上も経過した今日もなお、「歴史」を清算できないままでいる。


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