食の「地産地消」は、ずいぶんと浸透し理解され、そして定着してきた。ここには、歴史と風土と文化の香りがする。他方、ごく最近は、ときに「国産国消」という用語も使われる。それは、「国民が必要として消費する食料は、できるだけその国で生産する」という考え方だと説明される。
「地産地消」と「国産国消」、地域レベルと国レベルの違いで根本の哲学は同じといえるのだろうか。ひょっとすると、食文化の面では、まったく異なるものなのかもしれない。
消費があってこその生産
いまからもう20年も前になろうか。農林水産省による地域ブロックの農政担当者らを集めた「地方農政局長会議」が開かれた時のことだ。
ある局長が「地産地消というが、まずは消費が先ではないか。消費者がどんなものを求めるか、それに対応して生産・供給する、地消地産であるべきだ」と発言した。その通りである。
ここに、「こういうものがあるから食べろ」ではなく「こういうものを食べたい、使いたい」というマーケットインや消費、消費者、都市に支えられて生産者や農村地域が発展するという、いま盛んにいわれる地域支援型農業(CSA・Community Supported Agriculture)の考え方が明確に見えていた。わが国の消費者基本法、古くは米ケネデイ大統領の「消費者の権利に関する特別教書」(1962年)にも、消費者は選択する権利を持つとある。
地産地消の歴史と語源とは?
「地産地消」は事業として、1981年に始まったといわれる。地域の伝統食をベースとして、これに改善を加え、農業女性や高齢者の生きがいと所得を向上させることを目的とした。生産したものが消費サイドから好まれる、選択されていくのが大前提だった。
しばしば、「身土不二」(しんどふじ)(仏教用語では『しんど・ふに』)が地産地消の源流のようにいわれるが、意味・内容と利用の仕方には差が見られる。
身土不二とは、「身と土、二つにあらず」で、「身(心)」=これまでの行いの結果と、「土」=現在の環境、この二者は切り離せないということだ。これを「食運動」(食養会)がスローガンに利用し、意味も拡大解釈して、「地元の食品を食べると体によいが、他の地域の食品を食べると体に悪い」とされた。
なお、韓国では、身土不二運動とも相まって、韓国農協は原則として国産野菜しか販売しないそうだ。言葉の響きや運動に都合のよいスローガンに便利なのかもしれない。