「今年も最終節まで十分に楽しませてもらえました。サポーターとして、優勝してほしいのは当たり前だけど、それが全てではありません」
京浜急行電鉄の川崎大師駅を降りると目の前にある「ごりやく通り」。大師駅前商栄会に属する銭湯「寿恵弘湯」の店主、星野義孝さんはアルバムをめくりながら懐かしむ。
「当時からすれば、今の状況は夢みたいなものです。チケットが完売? 想像すらできませんでしたし、有り得ませんでしたよ」(星野さん)
昨日のJリーグ最終節の結果、惜しくも2位に終わった川崎フロンターレ。J1リーグ3連覇の夢はまたも叶わなかった。ただ、優勝争いが盛り上がるのは、トップを走るクラブと僅差のクラブが存在してこそ。近年のフロンターレの躍進は目覚ましく、サッカーファンであれば知らない人はいないであろう。その強さの秘訣はどこにあるのだろうか。クラブの歴史と共に紐解いてみたい。
「プロスポーツ不毛の地」川崎
1997年、富士通川崎フットボールクラブが改称され、川崎市をホームタウンとするプロサッカークラブ「川崎フロンターレ」が誕生した。2017年のJ1リーグ初優勝を機に、21年まで毎年タイトルを獲得している国内屈指の実力と人気を誇るクラブだ。ただ、現在に至るまでの道は決して平坦ではなかった。
〝また〟いなくなるのではないか――。「そうした感覚が全くなかったといえば嘘になる」と星野さん。大洋ホエールズ(現・横浜DeNAベイスターズ)、ロッテオリオンズ(現・千葉ロッテマリーンズ)、ヴェルディ川崎(現・東京ヴェルディ)……。
かつて川崎市に本拠を構えたプロスポーツチームが、ことごとくこの地を後にしたことを思えば無理もない。それこそが川崎市が「プロスポーツ不毛の地」と言われたゆえんであり、フロンターレの苦難の歴史を物語る。
クラブ初の生え抜き社員として入社し、地域密着を目指す部署に配属されたのが、タウンコミュニケーション事業部長を務める天野春果さんだ。「部署といえども、当時の専属社員は僕一人。とにかくクラブの名前を地域の人に知ってもらおうと必死で、自転車に幟を立てて走り回りました」と振り返る。
試合告知のチラシを駅前で配っても、全くといっていいほど受け取ってもらえなかった。用事がないとまともに話を聞いてもらえず、手作りの新聞を渡すことを「口実」に一軒一軒訪ね歩いたという。
「1年目は近隣の3つの商店街に絞り、頻度でいえば午前と午後に分けたりして1週間に10回以上は足を運びました。食事処では食事をするし、必要な物は可能な限り地元で買い揃える。必ず領収書をもらうようにして、『川崎フロンターレです』と伝えていました。応援してくれる人もいたけれど、その場で新聞をくしゃくしゃにされたり、灰皿を投げつけられたりもしました」
選手たちの説得にも当初は苦心した。「サッカー選手という職業に箔があり、地域のイベントに参加してほしいとお願いすると、中には『いくらもらえるんですか』と聞き返してくる選手もいました。ファンからサインを求められても、戦績を重視する強化部は『選手を疲労させないでほしい』とか『選手は芸人ではない』というスタンスで、地域に密着した活動には否定的でした」。
それでも粘り強く説得するほかなかった。街との関わりは「業務」ではなく「活動」、選手は「ゲスト」ではなく「参加者」というのが、天野さんの一貫した考え方だったからだ。