トラック運輸業は「明日届く」という世の中のニーズに応える形で成長を遂げてきた。戦後、日本各地に高速道路が建設され、地方の過疎化とは裏腹に地方の細部に至るまで立派な道路が張り巡らされてきた。「明日届く」ための環境は今日も整備され続けている。
しかし、「明日届く」ためには、当然のことながら深夜にトラックを走らせるドライバーがいなければならない。1950年に業界に先駆けて東京〜大阪間の長距離路線トラック事業免許を取得した西濃運輸は、55年には同区間を22時間で走破する「弾丸便」の運行を始めた。だが66年度の経済白書では既に、今後の労働力確保が課題として指摘されており、物流の「2024年問題」はこの頃からの懸案なのである。
60年代、日本経済は労働力の供給過剰から供給不足へと変化する「転換点」を超えた。以降、高コストとなった労働を資本によって置き換えることが多くの業種で進められた。すなわち、機械化の進展である。
だが同時期に、物流業界では鉄道貨物からトラックへの移行が進んでいった。66年度の統計でトラックの輸送トンキロ(輸送重量×輸送距離)が鉄道貨物のそれを初めて上回っている。貨車を連結して多くのモノを運ぶ鉄道貨物に対し、トラックはドライバーが1台ずつ動かさなければならず、1人当たりの輸送量は少なくなる。労働生産性が低下するのは自明である。それでも鉄道貨物からトラックへの移行はその後も進んでいった。
背景にあったのは、同時期から始まった高速道路の建設である。65年に名神高速道路、69年に東名高速道路が全区間で開通。これにより大幅な時間短縮が実現した。それまで一般道路を利用して東京~大阪間を運行した場合、最速で片道15時間を要していた。15時間を1人のドライバーが運転し続けることは無理があるから、交代ドライバーを同乗させなければならなかった。中には速度超過を繰り返す企業もあり、「神風トラック」という社会問題を引き起こしていた。
しかし、高速道路を使えば東京〜大阪間を8時間で走破できるようになり、1人のドライバーが1日で運行を完了でき、交代ドライバーを同乗させる必要もなくなった。トラック運輸業者にとっては大幅な人件費の削減となり、労働生産性は飛躍的に高まった。
そもそもトラック輸送がスピードを売りにしたのは、鉄道貨物輸送との違いをアピールするためであった。
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