しかし、問題の核心はテクノロジーにあるのではなく、教育システムに対する考え方とその再構築にある。私は多くの知識ある日本人たちが目覚め、「より良い日本」と「より良いアジア」のために、日本の教育を再構築するために、声を上げることを切に願う。
先人たちに思いを馳せ
教育の本質を見つめ直せ
米国と中国での教育を経験して思うこととして、両国は、文化、政策、制度において明らかに異なっている。中国には、1000年以上の歴史を持つ科挙制度や(日本のように)社会保障も十分とはいえない社会がある。また、いつ大惨事が起きるか分からないという底知れぬ不安や恐怖心が中国人の間では広がっている。その結果、教育が不運を回避する方法を教えてくれるものだと考えがちである。
明治維新以降、日本は中国とは異なる道を歩み始めた。第二次世界大戦後、真の民主主義と立憲主義に基づく政府が誕生し、70年代に至る高度経済成長期には奇跡的な経済発展を遂げた。
私は吉田松陰や福沢諭吉の著作もかつて読んだことがある。それはまさに、教育という営みを通じて、「人」や「国家」がどうあるべきかを説いたものであった。一方、中国でも欧米留学帰りで日本の自由学園や同志社中学の創設者と同時代を生きた胡適、陶行知、蒋夢麟、晏陽初らを中心に日本と同様の動きがあった。しかし、当時中国で建設された学校は、今はもうどこにも存在していない。
だが、現在の日本でも、吉田松陰や福沢諭吉が説いた頃の教育の本質が忘れられているように思える。何かが違うのだ。立憲民主主義が戦後80年続き、経済も安定している日本において、私は深い恐怖感を抱いているのはこのためである。この恐怖感は、電車内の学習塾の中づり広告で子どもたちが偽りの笑顔をしていることや、子どもを「良い」学校に入れようと、焦る親たちの顔を見るにつれ、ますます大きくなっている。このままの状況が続ければ、この恐怖感は次世代に受け継がれていくことになるのではないだろうか。
イノベーションや社会課題の解決、日本の内政や外交課題に向き合うためでなく、「良い」学校を出て、安定した仕事を見つけることだけが日本の教育の目的となっていないか。私は女性として、日本の教育や職場で見られるジェンダーの不平等にも心配している。
私を含む多くの中国人が、黒柳徹子氏の『窓ぎわのトットちゃん』(講談社文庫)やトットちゃんが幼少期に通ったトモエ学園の小林宗作校長の話をよく知っている。80年前の日本の教育をめぐる感動の物語と、後に世界から注目を集めたフィンランドの教育は本質的に同じだと思う。日本が高度経済成長期から80年代にかけて奇跡の成長を遂げた背景には、80年前の教育の成果があった。それらの世代の親のほとんどは農民だったが、彼らは教育の本質を理解していた。それが彼らを成功させ、日本社会の飛躍をもたらした。
今の時代、学歴や学位にはそれほどの意味はなくなりつつあるように思うのに、教育は学習塾をはじめとする教育産業の商業主義路線のペースにはまり、本質からどんどん遠ざかっている。
私は日本の教育が、これらの重要な歴史や事実を振り返ってほしいと願っている。教育の本質を理解し、しっかりとした土台があったからこそ、冒頭に紹介した「キリマンジャロの日本人」は、困難に耐え、冒険好きであるというイメージが海外の人々に定着していったのだと思えてならない。