2023年10月半ばに“2030年札幌五輪招致を断念”、“34年開催も困難、IOCが30年と同時決定へ“というニュースが出ていた。筆者は現時点で札幌五輪招致のGO・NOGOのスタンスは無いのだが、これは札幌と日本のさまざまな未来を再考する機会ではないかと感じ、少々交通整理してみたい。
本サイトでは既に、「基本的に現在までの仕組みによる五輪の時代が終わったことを認識すべき」という記事が掲載されている(「もはや20世紀に負の遺産?札幌冬季五輪招致は必要か」)。そのスタンスには全く同感で、現在の延長線上での五輪招致はオススメしない。逆に言えば、もしオリンピックを通じてその旧来型のパラダイムを変革することができれば、日本はさまざまな観点から国内・海外に対してブレークスルーができるだろう。
オリンピックはスポーツマーケテイングとして語られることが多いが、世界の政治と経済の変化の縮図であるオリンピックにおける発言力のマネジメント、公的組織のガバナンス、地域とディスティネーション(観光地)のマネジメント等の論点も考察する必要がある。冬季オリンピックを通じて、札幌と日本がこの各論点で組織能力を構築し、変革を促進することができるかどうかを考えてみてはというのが本稿のメッセージである。
政治的な駆け引きの場でもあるオリンピック
世界の政治と経済の縮図という観点では、政治的な対立が時にボイコットに繋がる事例が思い浮かぶかもしれないが、政治体制がオリンピックのルールに影響を与えてきた点も忘れてはならない。近代オリンピックの基本理念はオリンピック憲章なのだが、アマチュア規定は1914年に起草されたオリンピック憲章に盛り込まれ長らくオリンピックの基本精神の1つとなっていた。あるスキー選手が用具メーカーから金銭を得ているとして、参加資格を剥奪した事件などが有名だ。
しかし、西側諸国が本物のアマチュア選手しか派遣できないのに対して、社会主義国家の選手が実質的にはスポーツで生計を立てているプロ選手であるにもかかわらず、「社会主義ゆえプロは存在しない」という理屈でオリンピックに参加していたのだ。こうした不公平感が西側諸国のメディアやアスリートがオリンピックへの情熱を失ってしまうことへの懸念から1974年、アマチュア規定はオリンピック憲章から削除され、プロ参加の道が開かれた。
また、オリンピックの商業主義が加速したのは1976年のモントリオール大会の巨額赤字だった。この大会では、約3500万ドルという当時としては多額のテレビ放映料収入があったにもかかわらず、10億ドルほどの赤字が出たと言われている。その前のミュンヘン大会で過激派による史上最悪のテロ事件が起き、警備コストが跳ね上がったことが一因とされている。
オリンピックは世界の政治と経済の動向が濃縮された場であり、またさまざまなスポーツにおいてルールの駆け引きが行われる場でもある。筆者は、日本が地政学的な感覚にやや鈍感で、ビジネスにおいてもグローバルなルールメイキング力が弱い印象を持ち、世界が分断されている中で日本が内向きになりつつあることを懸念している。オリンピックを通じて地政学を意識しながら、自分達に有利な交渉・コミュニケーション力をする能力を養成することはできないだろうか?