2024年12月22日(日)

古希バックパッカー海外放浪記

2023年12月31日

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なぜ済州島事件と光州事件に興味を抱いたのか

 韓国現代史における悲劇である済州島事件と、光州事件については“民主化を求める市民運動に対して軍隊・警察が民主化運動を弾圧して多数の民間人が犠牲になった”という程度の曖昧な認識しか筆者は持っていなかった。

 韓国旅行中にネットで調べると、済州島事件では約7年間で3万人(一説には5万人)が死亡、光州事件では10日間で死者・行方不明者601人、負傷約4780人(2001年政府発表数字)という信じがたい数字。“民主化運動”でなぜかくも多数の死傷者が発生したのか、モヤモヤとした疑問を感じた。済州島事件は内戦レベルの犠牲者数であり、光州事件は天安門事件に匹敵する死傷者だ。

済州島事件の背景と概要

 日本の降伏後38度線から北はソ連軍、南は米軍が占領。南側は米軍施政下にあったが、米軍が1948年末までに撤退するために、韓国人政権を樹立すべく米軍は5月10日に総選挙を計画。

 済州島は、日本植民地からの解放後は左翼系の人民委員会が行政の末端を担っていた。米軍は行政実務の必要上から役所や、警察に日本植民地時代に下級官吏や警察官として働いていた地元民(対日協力者)を即戦力として採用。

 そのため人民委員会と行政・警察は真っ向から対立。人民委員会は南朝鮮労働党(北朝鮮の朝鮮労働党と連携した共産党組織)の指導の下、総選挙を妨害。

 南朝鮮労働党は総選挙を“粉砕”して『南北統一民主政府樹立』を目指し4月3日に武装蜂起、済州島内の警察支署を襲撃して十数人を殺害。この日を記念して韓国では“済州4.3事件”と呼ばれる。

 武装集団(済州人民遊撃隊と名乗り、当初は500人程度)による闘争は、朝鮮戦争後の1954年まで継続。軍隊・警察・治安隊の武装集団掃討作戦に巻き込まれ、多くの民間人が犠牲になった。武装集団はゲリラであり、済州島出身の若者が大半であったため、掃討作戦ではゲリラと民間人を判別することが困難であった。比較するのは間違いかもしれないが、筆者はイスラエル軍がハマス殲滅を目的にガザ地区を攻撃して、1万人以上のパレスチナ民間人が犠牲になっている地獄図を想像した。

小さな漁村の4.3事件記念館

「ノブンスンイ4.3記念館」の真新しい外観

 済州島は沖縄本島の1.5倍の面積で標高1950メートルの漢孥山の噴火で出来た火山島である。自転車で海岸沿いに1周するのに10日間を要した。済州島事件の冊子『4.3事件って何ですか』(政府系の済州4.3平和財団制作)を見ると、この広い島の全域で掃討作戦が展開され、ほぼ全ての集落で惨劇が起きたことが一目瞭然だ。

 最初に朝天という済州島北部の漁村の真新しい『ノブンスンイ4.3記念館』を訪問。掃討部隊の命令で、この村の小学校の校庭に老若男女問わず子ども・乳幼児も含む全住民が集められ、その一部が記念館の近くに連行され、一斉射撃により数百人が虐殺された。同じ日に近隣の広場でも無差別殺戮が起きた。

 惨劇の翌日に撮影されたらしい犠牲者の遺体が並べられた写真には女性・子ども・幼児・老人などが多数含まれていた。さらに無数の遺体に取り縋り泣き叫ぶ遺族の姿が映し出された写真も印象に残った。

 館員に話を聞きたかったが、残念ながら質問には答えられないと逃げ腰だ。平和祈念館に解説員がいるから平和祈念館に行ってくれの一点張り。

『済州4.3平和記念館』も被害者視点からの展示と解説

ノブンスンイの虐殺現場跡に建立された犠牲者慰霊碑

 大雨の中を3時間かけて自転車で山道を登りやっとのことで平和記念館に辿り着いた。4.3平和公園という広大な敷地の中にあり、3階建てのモダンな建物自体がモニュメントになっている政府系財団が運営している公営施設。

 設立趣旨は「4.3事件によって起きた民間人虐殺と、当時の済州道民の凄絶な営みを記憶し、犠牲者を追悼し、和解と共生の未来を切り開くための平和・人権公園である」。

 映像・展示物・写真をつぶさに見たが、モヤモヤした疑問が残った。ノブンスンイ4.3記念館と同様に被害者視点での写真と解説ばかりなのだ。米軍当局、李承晩政権の徹底した弾圧の残虐性。とくに李承晩が送り込んだ“西北青年会”という治安隊の残酷無比な行為が強調されていた。

 西北青年会というのは北朝鮮で資本家・地主・対日協力者(日本支配下で役所や警察で働いていた人々)として、朝鮮労働党から“人民の敵”の烙印を押され、全財産を没収され、市民権を剥奪されて韓国に亡命を余儀なくされた人々の青年組織である。共産主義者への敵愾心に燃えた集団である。李承晩は南朝鮮労働党とシンパの殲滅に彼らを利用したのだ。

 1950年に朝鮮戦争が勃発すると、済州島では軍隊・警察により北朝鮮内通の可能性があるとして、多くの若者が“予備拘束”され、刑務所に送られ理由もなく処刑されて多数が行方不明になったという。

 李承晩の失脚後も朴正熙・全斗煥・盧泰愚と続く1961年~1993年の軍人出身大統領時代には“4.3事件”そのものがタブーであったとの解説。この時代は、1973年に朴正煕暗殺未遂事件(夫人が死亡)、1980年に5・18光州事件、1983年にラングーン爆弾テロ事件(全斗煥大統領暗殺未遂)、1987年の大韓航空機爆破事件と常に北朝鮮のテロが続いていた。

 その時代には4.3事件の被害者または、被害者遺族であることが共産主義者やシンパと治安当局に疑われかねず、被害者と遺族は頑なに沈黙を守っていたという。

“民主派”政権により実施された済州島事件の真相究明

 金大中政権下の2000年に“4.3事件真相究明特別法”成立し、“4・3委員会”設置。2003年から廬武鉉政権下で“歴史清算事業”開始“4.3事件真相究明及び、犠牲者名誉回復委員会”を設置。

 李明博・朴槿恵の保守系政権下では特段の取り組みはなかった。文在寅大統領は、2018年4月3日の済州島の犠牲者慰霊祭に出席して真相究明と被害者の名誉回復と国家補償を約束。2021年“済州島4.3事件真相究明及び犠牲者名誉回復特別法”制定。2022年から犠牲者一人当たり9000万ウォン(=約1億500万円)の補償金支払いが開始された。

 そして真相究明事業や遺骨発掘作業や平和記念館の運営などは政府系の『済州4.3平和財団』が担っている。

現在のノブンスンイ小学校。70年数前の朝この校庭に集められた住民には恐ろしい運命が待っていた

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