むしろ画家の想像力に現実が後から追いついて、造形が成し遂げられてゆくという創造の逆説が、そこに浮かび上がる。ピカソの無意識はガートルードというアトリエの女主人によって掘り起こされ、そこから得た霊感によって造形の飛躍の契機をつかんだのである。
ピカソの創造の生涯の転換点であるばかりでなく、近代美術の革命と呼ばれる『アヴィニョンの娘たち』を描くのは、この『ガートルード・スタインの肖像』を完成させた翌年の1907年のことである。
いうまでもなく『アヴィニョンの娘たち』は、氾濫したフォルムと色彩の爆発がつくるミステリアスな画面を通して、近代絵画の常識を根底から覆した。明るい褐色に彩られた5人の裸形の女たちが思い思いの姿勢で、のびやかにポーズをとっている。
黒人美術の影響を色濃く受けたとみられるこの作品が、遠近法や陰翳の物差しから解放されて、絵画造形それ自体を構築し直すとともに、作者のピカソをフォーヴィズムの爆発へ導いていった大きな記念碑であることに、疑いをはさむ余地はおそらくなかろう。
『ガートルード・スタインの肖像』でいったん描いたモデルの顔を捨て去り、ピカソが深い集中のなかで再構築した肖像の仮面のように深い静けさは、あるいは翌年の『アヴィニョンの娘たち』で爆発する色彩と造形の反乱のひそかな予兆であったのだろう。
ヘミングウェイとスタインの「出会い」
妻のボーリンを伴った23歳のヘミングウェイをフルリュス街のアトリエに迎えた時、48歳のスタインは米国からやってきた初対面の青年作家から深い印象を受け止めた。
〈私はとてもはっきり覚えています。彼はとても美貌の青年でした。情熱的になんでも興味を持ちたがる眼を持ち、すこしアメリカ人らしくない容貌をしていました〉
ヘミングウェイは名画に囲まれた暖炉のあるアトリエで、スモモやラズベリーを蒸留した酒とともに提供される菓子を前にして心地よい時間に陶然とした。大柄の身体にふっさりした移民風の髪型をもつ〈ミス・スタイン〉は、ここへ集まる友人知人の芸術家の噂や若い作家たちの作品を次々と話題にのぼせ、彼の短編小説にも鋭い批評をくわえた。
そうしたアトリエの女主人の側には、いつも秘書を務めるアリス・B・トクラスという女性が影のように寄り添っていたことを、ヘミングウェイは『移動祝祭日』のなかで強い印象ととともに記している。
〈彼女のパートナーはきれいな声の主で、小柄な、肌の浅黒い女性だった。ブーテ・ド・モンヴェルの描いたジャンヌ・ダルクのように髪をカットし、鉤鼻がかなり目立った。最初に二人に会ったとき、彼女はニードルポイントの刺繡をしていて、それを続けながら食べ物や飲み物に気を配り、私の妻に話しかけた〉
このアリス・B・トクラスこそ〈ミス・スタイン〉の境涯の「恋人」であり、その伝記をまとめた「秘書」であり、そしてヘミングウェイとボーリンとの間に生まれた長男のジョンの洗礼にあたって、スタインとともに「代母」まで務めた女性にほかならない。
〈ミス・スタイン〉は自ら執筆している『アメリカ人の成り立ち』という長い小説の草稿を若いヘミングウェイに読ませて意見を求め、ヘミングウェイはそれを読んで感想を述べて、時には旧知の米国の出版社に取り次ぐといった親密なつきあいが生まれていった。
ヘミングウェイは欧州情勢についての報告を米国の地方新聞に送り、短編小説を書きながら若さにまかせてパリの街を巡り、人に会い、酒を飲み、競馬を楽しんだ。
セックスについての考えや行動を話題にのせることもしばしばあったが、その話題になると〈ミス・スタイン〉が彼の世代の虚無的な振る舞いに冷ややかなまなざしを送った。その陰には、アリスという「恋人」の目がどこかにあることを彼は見逃さなかった。
ヘミングウェイのなかに息づくマチョイズモ(男性原理主義)や戦争で〈死〉と隣り合ったヒロイックな行動を、ミス・スタインは時々からかい批判した。それは世代の落差というより、フリリュース街のサロンでほとんど一心同体となって暮らし、秘書として振る舞うアリス・B ・トクラスという「恋人」のまなざしが、そうさせたのではなかったか――。