2024年12月22日(日)

山師の手帳~“いちびり”が日本を救う~

2022年3月4日

突如として勃発したロシアによるウクライナ侵攻。レアメタルビジネスを通じて、ロシア、ウクライナと深い関係を築いてきた、レアメタル専門商社AMJ特別顧問の中村繁夫氏に、ウクライナの知られざる実像を語っていただいた。
(Anna Koberska/gettyimages)

高品質チタンのふるさと

 突如として勃発したロシアによるウクライナ侵攻に驚いている。私はレアメタルビジネスを通じて、ロシア、ウクライナと深い関係を築いてきたので、この経験を元にしたウクライナの知られざる実像を書いてみたいと思った。

 私がウクライナをはじめて訪問したのは、ソ連崩壊前の1980年代後半。若気のいたりとも言えるが、「とにかく安い」ということで売り先も決まらないまま、「ここは勝負!」と、ソ連からスポンジチタン(チタン合金の中間品)を輸入した。それを当時の住友金属工業と神戸製鋼所など、日本のチタン展伸材メーカーに持ち込むと、関係者から「どうしてこんなに品質が良いのか?」と驚かれた。

 モスクワにあったソ連の貿易公団から輸入したのだが、なかなかオリジン(どこの製品か)を教えてくれない。やっとのことで突き止めたのが、カザフスタンのとある工場だった。そして、そこで働くエンジニアの中に、多くのウクライナ人がいた。その後、モスクワから鉄道でウクライナに向かった。訪ねたのはザポロージャというウクライナ南部の町にあるスポンジチタン工場だ。そこで「ロシアやカザフに行っているエンジニアの多くはここの出身だ」と教えてもらった。高品質チタンのふるさとはウクライナだったわけだ。米国のチタン産業とは違う独自の発展をしていることに驚かされた。

 この町ではその名の通り「ザポロージャ」という名の大衆向け小型自動車も生産をしていた。皆が平等に自動車を所有することができたということで、旧ソ連諸国に大きな貢献をした。こうしたこともあって、旧ソ連の人々にも「ウクライナには技術力がある」という印象が残っていると思う。その他にも半導体の工場まであった。この訪問によってウクライナが技術力の高い地域だということを知った。ドイツ語を喋るエンジニアも少なくなく、当時からドイツなどに留学していたのかもしれない。

 これがきっかけとなって、ウクライナを毎年訪れるようになった。ソ連が崩壊すると、直接工場からスポンジチタンを仕入れるようになった。今だから言えるが、当時は私も「濡れ手で粟」といった感じでビジネスを進めることができた。というのも、ウクライナ側には国際相場の情報が入ってこないので、彼らの言い値で買うことで大きな利益を出すことができたからだ。

 数年後に「俺たちを騙していたのか?」と言われることもあったが、心根の良い人が多いのと、なぜか日本人の評判が良く遺恨はなかった。ただ、こうした状況は欧米からもコンペティターが現れるなどしてあっという間に終わってしまった。その後も、当時の新日鐵直江津工場に日本初の新型電子ビーム式溶解炉(EB炉)の輸入も行うなどウクライナの技術水準の高さには驚くことが多かった。

 そんな時期にボグダンさんという日本に育った青年と知り合った。彼は日本語の通訳をしてくれた。彼を通じてウクライナ人の国民性や複雑な歴史や伝統や宗教に至るまで勉強することができた。ボグダンさんと連絡を取りたいが戦争の最中だからまだ話すことは出来ない。真面目な青年だったから従軍しているのかもしれない。彼の安否が心配だ。

ウクライナ人と京都人

 こうした中で、“昵懇の仲”というウクライナ人の友人ができた。なぜか気が合うのである。それには、私が京都人であることと関係していることが分かってきた。というのも、ウクライナ、その首都キエフはまさに、京都のような町なのだ。事実、キエフ市と京都市は友好姉妹都市となって昨年には50周年の節目を迎えた記念をしたばかりだ。

 そもそもウクライナの首都キエフは、ロシアやウクライナの起源であるキエフ公国を起源としており、歴史があり、文化度も非常に高いのである。このキエフ公国がモンゴルに滅ぼされると、被征服者として支配者に対して上辺では従った。この辺り、都の支配者が入れ替わり立ち代わりした京都と通じるものがある。「ハイハイ」と上辺では言っても、内側には自分たちの信念を持っているのだ。

 また、日本人からすると、ロシア語とウクライナ語は「似たようなものでは?」と、思っているかもしれないが、これは大きな間違いで、実はぜんぜん違う。標準語と京ことば、というわけにはいかないのだ。言葉には文化が宿る。個人的な意見ではあるが、バレエだったり、ポエムだったり、文化芸術的な分野では、ウクライナのほうがレベルは高いのではないかと思う。一方、ロシアは政治や軍事に優れている。

 実はロシア料理と言われるものは元来ウクライナから伝わったレシピが多いのである。例えば、ボルシチをはじめとしてサリャンカ(塩味のスープ)やピロシキやグリブイ(キノコ料理)はウクライナからの“下り物”であることが少なくない。ビーフストロガノフもウクライナだと強弁するウクライナファンの友人もいるくらいだ。

 ウオッカといえばロシアオリジンだと思う日本人が大半だが、もともとはキエフ大公国から伝わったものだと聞いた事がある。ビール「ピーポ」もウクライナからロシアに伝わったとのことだ。

 このように、ウクライナ(キエフ)人による、ロシア(モスクワ)人への視線は、京都人が「東京」に対して斜に構えて見るところと通じるものがあると私は感じるのだ。

 ちなみに、京都にある「キエフレストラン」にはよく行く。キエフレストランのオーナーの加藤幹雄さんは私の高校の先輩でチタンの仕事でもお世話になった方である。というのは加藤さんは住友金属工業の副社長を勤めておられた関係からチタン事業部の共通の知人が多数居たのだ。

 食文化については何処の国でもお国自慢があるから多少は差し引いて聞くべきだが、キエフレストランで聞く限りはロシア人はロシアの味が良いと言うし、ウクライナ人はやはりウクライナの方が伝統があるといって引き下がらないらしい。要するに美味しかったら良いのだから大した問題ではないとした方が喧嘩にならなくて良い。

 京都とウクライナの重要な違いを指摘しておくと、ウクライナ人は、ソ連によって大量虐殺(ジェノサイド)されたという歴史を持つ。1930年代、スターリンが、外貨獲得のための「飢餓輸出」を押し進めた結果、穀倉地帯であるウクライナで大量の餓死者が出たのだ。この出来事は「ホロモドール」という名前で、ウクライナの人々の間で共有されている。これが、ウクライナ人のロシア人に対する不信感として今も続いているのである。

 東部地区のルガンスク州やドネツク州にロシア人が多い理由としてウクライナ人の家族離散した後にロシア人が住宅に住みついたと聞いたことがある。酷い話だが事実なのだろう。


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