2023年6月5日(月)

医療神話の終焉―メンタルクリニックの現場から

2023年4月1日

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井原 裕 (いはら・ひろし)

獨協医科大学埼玉医療センターこころの診療科教授

1962年生まれ。東北大学医学部、自治医科大学大学院を経て、ケンブリッジ大学大学院修了。順天堂大学准教授を経て、現職。著書に『激励禁忌神話の終焉』(日本評論社)などがある。

「息子の人工呼吸器、電話で『高齢者に回す』 命の差別に絶句」
岩手県H市のミヤザワハナコさん(37)は、長男ケンゴ君(14)の主治医から、電話で「死なせることを許してほしい。75歳以上の高齢者の治療を優先する。人工呼吸器はつけられない。子どもに回す人工呼吸器はない」と告げられた。ケンゴ君は、新型コロナ感染で入院していた。主治医は涙声だったという。ケンゴ君はそのまま亡くなった。ハナコさんは本紙からの取材に、「ケンゴは、もともと病弱で、幼いころから何度も死にかけて入院していました。雨にも負けて、風にも負けて、雪にも夏の暑さにも負けてしまうひ弱な体だった。医療は、こういう弱い子供こそ救うべきでしょう。国がケンゴを死なせたのです」と憤った。
(Povozniuk/gettyimages)

生命・医療倫理研究会の『提言』

 さて、これは、エイプリルフールのフェイクニュースである。しかし、この記事を読めば、何と悲惨なことかと思わされる。

 このフェイクニュースのオリジナルは、2020年4月5日付けの朝日新聞の記事である。見出しには、「父の人工呼吸器、電話で『若者に回す』」とあった。

 それによれば、スペイン・マドリードのオスカル・アロさん(47歳)は、感染がわかった父親(80歳)の入院先の医師から、「75歳以上の高齢者には人工呼吸器はつけられない。若い患者に回さないといけないから」と言われたという。同紙は、この事件を「救うべき命の選別」と評していた。

 実は、この記事が掲載されるわずか6日前に、「生命・医療倫理研究会」が『COVID-19の感染爆発時における人工呼吸器の配分を判断するプロセスについての提言』(2020、以下『提言』)を発表していた。このグループは、医師・看護師・弁護士・倫理学者からなるグループである。

 中身を検討すると、すでに装着した人工呼吸器を、生存中に外すことにも踏み込んでいた。消極的安楽死を容認するかのような提案には、批判の声も寄せられた。一方で、「性別、人種、社会的地位、公的医療保険の有無、病院の利益の多寡(例:自由診療で多額の費用を支払う患者を優先する)等による順位づけは差別であり、絶対に行ってはならない」といった優れた記述もあった。

 この『提言』は「試案」であることを断っており、批判を歓迎するとしていた。一部の国では、すでに人工呼吸器を若年者に優先的に配分している。その場合、「何よりも救命可能性の高い患者に」という理由であった。

 この理屈が、高齢化社会の日本で許容されるかは、議論の余地があった。そのタイミングで、朝日新聞の記事が出た。

 「救うべき命の選別」という批判には、これ以上の議論を許さない圧力がある。しかし、議論することなくして、有事にあっては「万人の万人に対する戦い」が起る。その結果、弱肉強食の原理に従って、最も健康に恵まれない人々が悲惨な目に遭いかねない。そんな事態を避けるためにこそ、資源配分の問題を議論しなければいけなかったはずである。


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