台北市街地東部の、東門や大安森林公園の近くに青田街という一角がある。台北市観光局のホームページでは、緑豊かなおしゃれスポットとして紹介されている。ガイドブックでも、日本家屋をリニューアルしたカフェやレストラン等があると書かれている。
そこは、日本が台湾を統治していた時代に昭和町と呼ばれ、当時の台湾帝国大学(現在の国立台湾大学)の教授などとして日本から渡ってきた人たちが日本風の家屋を建てたまちだ。実はこれら日本家屋の保存運動を台湾人が展開している。日本統治時代の名残とも言える街並みをなぜ、台湾人自らが残そうとしているのか。活動を行う社団法人台湾故郷文史協会理事長の黄智慧さんにこのまちを案内してもらうとともに、意義を聞いた。
日本家屋に詰められた台湾の歴史
再生されたカフェレストランの一つ「青田七六」(青田街の7巷6号が地番から名付けられた)は、当時建てられた典型的な日本家屋である。日本と違うのは亜熱帯の気候に耐えるため床が高い位置にあることくらいだ。
玄関を入るとすぐ応接間があり、そこだけは洋間となっている。広縁に沿って食堂、書斎、子供部屋、そして寝室となる座敷などがある。建築主はサトウキビの微生物研究者の足立仁氏で、北海道帝国大学から台湾帝国大学教授として赴任してきた。
日清戦争の後、日本が台湾を植民地にしたのは1895(明治28)年だが、亜熱帯で先住民によるゲリラが多い台湾統治は当初、うまくいかなかった。切り札として投入されたのが児玉源太郎総督と後藤新平民政長官だった。
民政を任された後藤は、台湾の風土に合った砂糖生産を企て、米国に滞在中の新渡戸稲造を台湾に呼び寄せて台湾に最適のサトウキビ品種を選定させた。同時に関連の農学、生物学などの若手学者を日本から集めた。サトウキビを精製するための工場を建設し、運搬のための道路を建設し、輸出のため基隆港をつくった。
そのため土木、港湾、工業など多くの若手学者や技術者も集めた。これらのうち多くが旧昭和町、すなわち現在の青田街周辺に住んだ。青田七六の建て主である足立仁もその一人である。青田街は日本による台湾統治と都市開発の歴史が詰め込まれた場所であると言える。