2カ月島流しの発端
バリ島の最初の逗留地のスミニャックのホステルで17泊という長逗留になってしまった。一つには旅程初日のバリ島デンパサール空港でロストバッゲージに遭遇したことだ。荷物の所在が判明するまで身動きできない。
1週間着の身着のままで過ごして10日後にバックパックが届いた。さらにビザ延長手続きのため1週間同じホステルに滞在することになった。
そんなこんなで、すっかりやる気がなくなってしまった。オリジナル・プランでは、バリ島からロンボク島、コモド島、スアレス諸島などアイランド・ホッピングして東インドネシアを周遊する予定であったが、移動するのが面倒になってしまった。帰国フライト(格安航空券のため旅程変更不可)の12月15日まで2カ月、バリ島で時間を潰すことに決めた。時間があり余るほどあるのでお陰さまで興味深い人々と遭遇することになった。
年齢・国籍不詳の不思議な青年
最初にその男性を見かけた時はスキンヘッドに髭面、鼻と唇にピアスという風貌と、ひと昔前のヒッピー風の服装から年齢国籍不詳だった。翌日話してみると日本人でありAと名乗った。日本語がたどたどしい。豪州の片田舎に住んでおり、1年以上日本人にあっていないので、上手く単語が出て来ないという。
バリ島には何度か来ているので少しサーフィンする以外にはのんびりするだけらしい。そんなことから数日間話をする機会を得た。40代であるA氏の波乱万丈の人生と、生き様に惹きつけられた。
母親の出奔、そして父子3人の生活
A氏父親は、それなりに安定した仕事環境だったようで、定年退職するまで同じ会社に勤務した。だが、A氏が2歳の時に母親が家出。以来父親と兄との3人暮らし。父親は母親が家出してから母親の写真、手紙その他母親の残したものを一切合財処分。しかも母親の話は禁句でありA氏は母親については一切知らない。
過酷な家庭環境から10歳で家出の常習犯に
兄は小学校でいじめを受けていたが、家に帰るとA氏を虐めて憂さを晴らしていた。父親が定めた家事の分担も兄は一切せずにA氏に押しつけた。こうして兄の虐待を受けながら掃除、洗濯、買い物、炊事の一切をA氏がやらされる毎日が続いた。
何度父親に訴えても父親は兄弟げんかとして取り上げない。兄の虐待は次第にエスカレートしても、父親は兄の嘘の説明を鵜呑みにして放置し、逆にA氏を叱るという対応。父親がなぜ兄を贔屓するのかA氏には理解できなかった。いずれにせよ当時小学生のA氏には父親の態度は不可解かつ理不尽で気が狂うくらい悔しかったという。
家出して初めて孤独の中で自由を感じることができた
小学4年生の時にA氏は初めて家出した。空き家、神社などで寝て数日して家に戻るという繰り返し。そして12歳の頃には家出しながら、昼間は小学校に通うという生活になった。食べ物は万引きして、現金はゲームソフトを万引きして中古ソフト屋で売って換金した。
家出中に食べ物や着替えのために家に戻ったところを待ち構えていた父親に捕まったこともあったが、それでも家出を繰り返した。
人生を変えた児童保護施設
小学校6年の1学期、ついに万引き常習犯として警察に引き渡され児童相談所による保護観察処分となった。それから父親の同意の下で小学校6年の2学期から児童養護施設で暮らすようになった。
児童養護施設の職員は児童教育の専門家が多く、A氏は安心して勉強したり遊んだりすることができたという。こうして6年生の後半から高校卒業まで6年半を児童養護施設で過ごした。A氏は信頼できる先生方や親しい友人を得ることで、人生を前向きに生きることができたと児童養護施設に感謝していた。
児童養護施設に預けられた子どもは原則として地域の公立学校に通う。中学・高校では虐めを受けることもなく、勉強に精を出して平穏な学校生活を送れたとA氏は振り返っている。
意外だったのは児童養護施設の子どもは喧嘩慣れしているので、地域の中学校の代々の番長は養護施設の生徒だったという。筆者は施設の子は差別されたり、虐められたりしているのかと心配したが、A氏は養護施設の子どもたちは自分の身は自分で守るという独立心が養われて逞しく育つ傾向があるという。