2024年6月22日(土)

日本人なら知っておきたい近現代史の焦点

2023年4月13日

 8月上旬に始まった上海での戦闘は苛烈を極めた。近衛内閣は居留民保護を目的として内地から増援部隊を次々に派遣するが、中国軍の抵抗は頑強であった。戦闘は11月下旬まで続いた。日本軍は上海付近の中国軍を駆逐することに成功するものの戦死傷者は4万人を超えた。日本軍は上海攻略の勢いのまま国民政府の首都南京を目指して進撃を開始する。同時に華北・チャハル(現在の内モンゴル自治区と河北省の一部)両方面での戦闘も拡大し、紛争は完全な全面戦争に移行していくのである。

日本を呑み込む中国大陸の縦深性

 もともと局地戦を前提とした当初の作戦計画では、南京攻略は想定されていなかった。発端は現地陸軍部隊からの南京進撃提案であった。作戦的見地からすれば現地軍の意見具申は的を射たものであった。上海から南京までは300キロメートルしかなく、進撃可能範囲である。加えて現地日本軍の兵力は膨れ上がり士気も上がっている。対して中国軍は敗走し浮足立っている。

 陸軍中央の意見は割れた。それは南京攻略が重要な「外交カード」だったからである。一般に外交カードには二通りの考え方がある。一つは、強力なカードは切るべきだという考え方である。もう一つは、カードは切らずに威嚇に使うべきだという考え方である。どんな強力なカードも切ってしまえば二度と使えないからだ。どちらの考えが正解かはひとえにその時々の状況による。

 陸軍中央を制したのは前者であった。12月1日、南京攻略作戦は正式に下令され、日本軍は約半月の猛進撃によって南京を占領した。しかし蔣介石は内陸奥深くの武漢(のち重慶)に移って抗戦を継続した。蔣介石の抗戦意志はこの時も日本側の予想を上回った。南京攻略による戦争終結という日本側の思惑は外れ、同時に貴重な外交カードも失ってしまった。

 南京攻略は外交カード喪失以外の副作用ももたらした。国民政府を交渉の相手として否認してしまったことである。いわゆる『対手とせず声明』である。1938年1月16日、近衛内閣は「爾後国民政府を対手とせず〔中略〕新興支那政権の成立発展を期待し是と両国国交を調整」すると声明した。翌々日にはさらに念を入れて「対手とせず」の意味は「否認」よりもさらに強いもので、国民政府の「抹殺」を意味するものであると補足説明した。

 現在でも政治的悪手として批判される同声明だが、日本側としては、国民政府が首都を追われ華北・華中の主要都市も喪失した以上、自然に弱体化し崩壊するものと考えたのである。

 また見方によっては、同声明は戦争目的の拡大でもあった。国民政府の「抹殺」とは間接的な政権の打倒宣言である。宣言してしまった以上、必然的にそれは戦争目的の性格を帯びてくる。上海・南京両攻略戦での日本軍の犠牲は、もはや謝罪や保証といった微温的な戦争目的では正当化できないものになっていたのである。

 しかし日本側の予期に反して国民政府は崩壊しなかった。巨大な大陸国家中国の縦深性は島国日本の想像を超えたものであった。

 他方、日本軍の後援の下で各地に樹立された新政権は弱体であり、新政権との和平によって戦争を打ち切ることは全く現実的でなかった。しかも作った以上、国際信義の観点からその存在を見捨てることはできず、国民政府との交渉に際して障害にすらなってしまう。以後、日本の和平工作は『対手とせず声明』をいかに乗り越えるかという問題に多大の労力をつぎ込まざるをえなくなるのである。戦場における優位が、むしろ政治的な足かせとなって日本を拘束するようになっていた。


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