方針転換を迫られる研究機関
政府が採るべき政策とは
日本政府も、対策を講じてはいる。文部科学省が促したこともあって、輸出管理や安全保障を管轄する担当部署が、既にすべての国立大学に設置された。だが、大学本部が個々の研究室の研究内容を把握できていないことに加え、研究者自身、応用の可能性を十分に認識しているとは限らない。基礎的な研究が「軍事研究」になるかどうかを判断するには、別個独立のイマジネーションが必要である。それを個々の研究者各自に期待することはできない。技術流出を抽象的に問題視するだけでは、研究現場を萎縮させ、無用な負担を課すだけの結果になりかねない。
研究の「グローバル化」を掲げていた、従前の科学技術振興策との板挟みも生じている。文部科学省は、国際共同研究を積極的に奨励し、国際共同論文の執筆を促進し、外国人研究者の受け入れを進めてきた。日本の研究室には中国人研究者が現に多数在籍しており、彼ら抜きでは研究活動そのものが成り立たないことさえある。にもかかわらず、突如として安全保障意識を高めるよう促されても、研究現場は混乱するばかりである。外国人留学生のほとんどは善良な研究者であって、現場においては大切な仲間である。単なる国籍によって差別するような運用は、まったく実情とかけ離れている。
では、どうすればいいか。まず、眼前の問題は、経済安全保障という、従前の科学技術政策とは異質な要請によるものである。だとすれば、文部科学省、大学、研究室、そして個々の研究者に責任を負わせて済むような問題でないことは、はっきりしている。たとえば、米国当局に無用な疑念を生じさせないためには、司法省と法務省、FBIと公安調査庁といったカウンターパート相互が、平素から緊密に情報交換をしておく必要がある。
他方で、関係政府機関は、必要なイマジネーションを持って研究者にアドバイスを行う必要がある。多くの日本人研究者は、研究成果が軍事転用されることを望んでいない。そうであるならば、軍事に転用されかねない技術については、それが機微に触れかねないとの認識を提供することが必要だ。そのためには、研究室と平素から連携し、個々の研究者との間で信頼関係を構築しておくことが望まれる。そして、万一の事態においては法務省が研究者の支援に駆けつける。将来的には、放射線を用いた研究に際して放射線取扱主任者に相談するように、安全保障上の機微にわたる研究に際しては、必要な知識経験を持った「技術安全保障担当者」に気軽に相談できるような体制を、各研究機関が構築することが望ましい。これらを目的として、筆者は、関係機関と協力し、20年9月からパイロット・プロジェクトを立ち上げている。
そうした対策を講ずる上で何よりも重要なのは、研究の自由である。経済安全保障は国策として重要だが、研究現場に強制を持ち込むものであってはならない。優れた研究者は、強制を何よりも嫌う。自発的な協力なくして、経済安全保障は達成できない。もっとも、日本の大学に籍を置く研究者は研究費を私的に経理することを認められておらず、政府機関や民間企業からの研究費もすべてガラス張りにせねばならないとされている。まして、外国からの資金援助を受けているのであれば、それを申告義務の対象とするのは、当然である。しかしながら、海外渡航の自由が日本国憲法の保障する人権である以上、外国に渡航したり外国の大学に移籍したりするのを禁止することはできない。
「頭脳流出」を止めるには、北風ではなく太陽に学ぶことが必要だ。自由に伸び伸びと研究できる環境を整える、不安定な任期付きポジションの安定化を図る、生活面の困難が生じないよう待遇を改善する、さらに起業や産学連携の面での魅力を増すというのが、政策目標となるべきだろう。最後の点は見落とされがちだが、財産を理不尽に没収されたり国家や党の命令によって上場を妨げられたりする可能性ないというのが、自由で民主的な社会の長所である。これは、優れた若者をわが国に惹きつける上でも重要である。世界中の優秀な研究者が、自由に安心して研究できる日本。それが、望ましいわが国の未来であろう。
■取られ続ける技術や土地 日本を守る「盾」を持て
DATA 狙われる機微技術 活発化する「経済安保」めぐる動き
INTRODUCTION アメリカは本気 経済安保で求められる日本の「覚悟」
PART 1 なぜ中国は技術覇権にこだわるのか 国家戦略を読み解く
PART 2 狙われる技術大国・日本 官民一体で「営業秘密」を守れ
PART 3 日本企業の人事制度 米中対立激化で〝大転換〟が必須に
PART 4 「経済安保」と「研究の自由」 両立に向けた体制整備を急げ
COLUMN 経済安保は全体戦略の一つ 財政面からも国を守るビジョンを
PART 5 合法的〟に進む外資土地買収は想像以上 もっと危機感を持て
PART 6 激変した欧州の「中国観」 日本は独・欧州ともっと手を結べ
PART 7 世界中に広がる〝親中工作〟 「イデオロギー戦争」の実態とは?
PART 8 「戦略的不可欠性」ある技術を武器に日本の存在感を高めよ
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