2024年5月6日(月)

日本人なら知っておきたい近現代史の焦点

2023年4月13日

 結論から言うと、日本は南進と対独提携が引き起こす米国の反発を過小評価していた。当初、陸軍は南進と対独提携が対英戦争につながることを予期していたものの、必ずしも対米戦争に発展するとは考えていなかった。現にドイツと戦争中の英国とは異なり、米国は中立国であり、しかもフィリピンを除けば南方植民地を持たない。したがって南進や対独提携に対しても、そこまで激しい反発は示さないであろうとの見通しである。いわゆる「英米可分論」である。

 この考えが端的に表れているのが前述の『基本国策要綱』採択の翌日に大本営政府連絡会議で決定された『世界情勢の推移に伴ふ時局処理要綱』である。同『時局処理要綱』は「英米可分論」に基づき、機会便乗主義的な積極的南進論と対独提携を主張していた。北部仏印進駐と三国同盟はその帰結であった。

 その後の歴史的経緯を知っている立場からすれば、甘い見通しであったと言わざるをえない。しかし現に歴史的事実として、米国は満州事変では日本を道義的に激しく非難したものの、経済制裁は行わなかった(連載第5回『現代ロシアのように日中戦争に突き進んだ帝国陸軍』参照)。東南アジア問題で米国が危険を冒すことはないとの陸軍の判断自体は(間違いではあったが)それほど不条理なものではない。

日米戦争を招いた「英米不可分論」

 こうした陸軍の判断は、米国が経済制裁を強化したこともあり、修正を迫られた。1941年4月に策定され、6月に大本営陸海軍部で正式決定された『対南方施策要綱』では、従来の「英米可分論」から「英米不可分論」へと大きく方針が転換した。

 同要綱は「英米不可分論」に基づき、南進政策が対米戦争に帰結する可能性が高いことを前提として立案された。その上で、対米戦争を避けるため、従来の機会主義的な南方進出論を修正し、南方進出の目的を「自存自衛の為」に限定した。具体的には、当面の進出先を経済的・軍事的に最低限必要な(と陸軍が認識している)仏印とタイ王国に限り、他の諸地域とは経済関係強化に止めるとする。他方で、米国の経済制裁によって国家存亡の危機に立たされた場合には武力行使するとした。

 前年の『世界情勢の推移に伴ふ時局処理要綱』と比較した場合、この方針転換は二面性を持っていた。すなわち、機会主義的な南進を否定してその範囲も局限した点では穏健化であり、しかし一方で、耐え難い制裁を科された場合には開戦すると明確化した点では強硬化である。

 では「英米不可分論」に基づき、対米戦回避に舵を切ったはずの日本は、なぜ直後の7月に南部仏印への進駐を実行してしまうのだろうか。

 皮肉なことに、その原因の一端は『対南方施策要綱』に表れた南進政策の「穏健化」にあった。前述のように、同要綱は従来の機会主義的南進論を修正し、南進の目的・範囲・手段を「自存自衛」の範疇に限定していた。すなわち日本側の主観的認識では、南部仏印への進駐は攻勢的なものではなく守勢的・自衛的なものであったのである。


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